斑尾一般

■人文に関する知識
斑尾山の山名起源と薬師伝説
斑尾山は、「マダラオサン、マダラオヤマ、マダラサン」と呼ばれたり、単に「マドロオ」とも呼ばれ、奥信濃の人々には古くから親しまれている。
また、四季折々に変化する山容の美しさ、人々に心の安らぎを与え・唱歌「ふるさと」に唄われているように、その広大な山麓の山並みは、古里の山としての性質を持ち、ゆったりとした噴かみを与えてくれる山である。
標高1381.8mの薬師岳を主峰とした斑尾山は、第3紀から.第4紀170万年前)という遠い地質時代に出来た火山を中心とした斑尾火山群であり、西方には、妙高山(2446m)、火打山(2462m)等からなる妙高火山群であり、鍋倉山(1289m)、黒岩山(1242m)などからなる関田山脈が長野県と新潟県の県境にまたがっている。
主峰が薬師岳と呼ばれているように、これにまつわるいくつかの伝説や山名起源説があり、山麓の人たちには、ある種信仰の山の性格も持ち合わせている。
薬師岳の伝説は、和銅5年く713年飛鳥時代の終期)泰澄法師(たいちょぅほうし682年、飛鳥時代中期、福井県生まれ、養老元年717年霊夢によって白山登排を決意し、開山。人形、仏像彫刻では日本最初の達人といわれている)。役小角くえんのおづぬ634年)後の役行者(えんのぎょうじや)と並び修験道の二派とされている。
泰澄は白山を道場とし、役行者は、大峰山を道場としたが越前より越後に赴く際、五輪山(米山993m)の麓の大樹の下にて仮眠をした時、神の夢告に五輪山の西南斑尾山に至る間、濁水奔流して人々大いに苦しみ、これを防ぐことも出来ず困難しているが、薬師如来を安置し、崇敬するならば濁流は清流となるであろうと告げられた。夢さめて、一本の香木から二体の薬飾如来を刻み、一体を五輪山に、もう一体を斑尾山に安置し奉仕すると濁流は清く澄んだという。
また、泰澄法師ではなく、行基(ぎょうき668年〜749年飛鳥〜奈良時代民衆に仏教を広める傍ら、潅漑用水、橋の工事など交通の便をよくする等の活動で民衆から「菩薩」と敬われる。743年聖武天皇に協力し東大寺大仏建立の必要性を説いた。国で最初の僧として最高位の「大僧正」を受ける。
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また野沢温泉の湯を発見したとの一説もある)とされており、斑尾山の頂上近くの平らな石に座り栴檀の木(せんだんの木・ビャクダンの異称)で二体の薬師如来を刻み、一体は里人たちが寺を建立し安置、真言宗堀能寺と名付けた。もう一体は、お告げを受けた五輪山の頂上に祀ったとの説もある。
堀能寺はその後、荒れかけたが康平6年〈1063年平安時代中期)一に源頼義(みなもとよりよし988年〜1082年鶴岡八幡宮を建立)が陸奥を平定し奥羽から凱旋の途中、薬師の霊験なるを聞き、多くの寄進をして坊舎を修造 し「荒千坊」と名付けた。地名の荒瀬原は、これに由来するといわれている。
現在、山頂に奉られている小さな石の祠は、下荒瀬原即心院の奥の院にあたり、高さ60センチ、横約45センチで中には13体の石仏が入っている。
12薬師とされていることから一体は別のものなのか、または、薬師如来と十二神将(十二支にもたとえられでいる)であろうとも思われる。
この石仏を祠より出して、またもとのように入れようとしても最後の一体はうまく収まらないと言い、出したまま下山し過日行くと、もとのように自然と収まっているという伝説がある。また、この薬師にいたずらをすると天気が悪くなると伝えられ、雨が降ると里のお年寄りは「誰かまた薬師様をいぴったな」といったものだといいます。
天頂8年(831年平安初期)斑尾山が崩れ多くの岩石が麓まで落ちてきた。
行基が薬師如来を刻むために座った石の一部も崩れたが、十二薬師はその石をつかって彫ったとも伝えられている。
斑尾山でも特に岩石が露出していて崩れたような場所として、山頂より西に300m程に大明神岳という峰があるが、ここが山頂近くの平らな場所ではあるまいか・・・?眺望も素晴らしい場所である.
他に薬師像を納めた堀能寺が天授元年く1375年室町時代初期)火事にて焼失し、幾多の歴史を経て元和元年く1615年)即心院と改められている。
その後、慶安4年(1651年江戸時代初期)薬師仏像が消失することを懸念して、磐石の一片で石堂および石仏を造り、本像に換えて斑尾山頂上に安置したと伝えられている。
山頂の祠の右側には「慶安四卯未四月」と刻まれており、左側には「享和元酉未六月」と刻まれている。
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(慶安四年=1651年 江戸時代初期)
(享和元年=1801年 江戸時代中後期)
斑尾山の山名起源も様々なものがあり、その一つに空海(774年〜835年奈良時代後期〜平安時代初期、没後921年に後醍醐天皇により弘法大師をおくられる)が全国布教の途中、観教の写経をこの山の峰に埋めたのが「曼陀羅の蜂」まんだらほう=まだらほ−=まだらお、とも考えられ伝わっている。
江戸時代の古文書には、信州では斑山と呼び、越後では斑尾山と呼んでいたと記録されている。また袴岳(1135,3m)毛無山=1022.4m)も斑尾山の寄生火山であり、袴岳は、古文書に斑尾山袴峰となっている。
斑尾山の地域には、この山に関係した言い伝えや、伝説が数多く残されている。
小菅神社は役小角くえんのおづぬ)が飛鳥時代中頃、天武8年(697年)に来山したことから始まっている。
斑尾山麓の伝説に、北国街道を信濃に入った修行僧は、始め黒姫山麓に道場を開いたが、交通路に近く俗化したので、ニ派に分かれ、一派は戸隠山に、もう一派は斑尾山に上がったとある。
小菅神社はその後、行基が参詣し、馬頭観音を彫り、安置し、弘仁11年(20年平安時代初期)には弘法大師が東国へ布教の際、小菅山にて修行したとある。
信濃と超後を隔てる関田山脈の中でも南端で孤立した山として何らかの意味を持ち、またなだらかな山麓は、交通路としても便利ではなかったかと思われる。
いずれにしても、斑尾山の歴史は飛鳥の時代に始まっている。
大蛇と蝦蟇
その昔、山中に大蛇と蝦蟇が住んでいた。どちらも年を重ねた魔性で、里人が山へはいるといつも眠くなるのは、蝦蟇が物陰から通る人の血を吸い取るからだと言われ、これを防ぐには紙を顔に当てて歩くと、赤い血が紙にばらばらと付くので「そら危ない」と急いで逃げるのだという。大蛇は二つ頭のノズチといい、山中で大声を発すると霧がわき風が吹く大荒れとなって帰れぬと
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いう。ある時、大蛇と蝦蟇が出会って争いを始めた。辺りが暗くなり里人は驚き恐れて逃げたが、やがて引き返してみると、大蛇と蝦蟇は、にらみ合ったまま死んでいたという。
山の伝鋭
野尻湖に東の山(斑尾山)から雄の竜、西の山(黒姫山)から雌の竜が夏になるとやってきて、雌雄がよって竜巻を起こし湖水を巻き上げ、太い水柱の中にピカリピカリと稲妻が閃めくので恐ろしい。
斑尾高原の八坊巡拝(はちぼうめぐり)
斑尾山の山麓には古道があり、この道は、古代の律令による官道の一つで、延喜式によれば近江国勢多駅(滋賀県)を起点とし、美濃国(岐阜県)信濃国(長野県)上野国(群馬県)下野国(栃木県)を経て陸奥国(青森・岩手県)に通じる東山道(あずまやまみち)からの幹線道路で信濃から越後国府に至る北陸路である。そして「遊歩百選」に選ばれた斑尾高原トレツキングトレイルの一部はこの道を歩く。
信濃と越後の境に位置する斑尾山の山麓には、平安時代から鎌倉時代その道の重要牲から多くの集落が形成されていったと思われる。往来の多さや、当時の仏教布教などにて多くの寺院が建てちれたことも記録されている。
親鸞(1173年〜1262年平安時代終期)が越後から関東への布教の途中、この地を旅したのもこの時代1213年頃(銭倉時代初期)ではなかろうか。
しかし、繁栄とともに山の木を切り尽くし、また鎌倉時代に入り戦国の世の流れから街道が寂れ、この地域の八人の僧が経文、仏像などをこの地に埋め永日の供養をして何処へ退散したのである。時に永仁元年(1293年)4月28日のことである。現在この地が八坊塚という地名で残っている。
永仁元年からおよそ600年位が経過した頃、飯山本町の忠右衝門なる者がこの地を通ると何か感じるものがあり、感じるままにこの地より八人坊が埋めた写経と如来仏橡を堀だし、飯山忠恩寺へ納めたという紀録がある。
忠恩寺には、この記録と一致する「曼陀羅佛」というものが現存している。
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その後も、親鸞の布教の旅を訪ね本願寺八世蓮如(1415年〜1499年)は応仁2年(1468年)に現在の妙高市樽本地区を通り信濃の国へ行ったといわれており妙高市大鹿の浄土真宗逢龍寺に蓮如筆と伝えられる六字名号があり、伝説も残されている。奥沼集落にも寺があり、空海の弟子、慶順(1486年〜1592年)が開山したといわれている。
斑尾高原のホテル、ペンションが立ち並んでいる場所の地名は長野県側に飯山市八坊塚、新潟県側に妙高村大字樽本八坊主となっている。
斑尾高原の歴史
斑尾高原は長野県の北、飯山市から12km、斑尾山の北東に広がる標高1,000mの斜面にある。
新潟県と県境をまたぎ、ホテル、ペンションが建ち並んでいる。
斑尾高原から直江津沖日本海までは、直線にして約40kmのところである。
晴れた日には斑尾山中腹から佐渡島を望むことが出来る。
斑尾高原の歴史は1964年(昭和39年)に遡る。
第18回東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業、飯山市は市制10周年を迎えた年である。高度成長を遂げた日本経済の中でも、長野県の最北端に位置する飯山市は様々な問題を抱えていたが、深刻な過疎が開発のきっかけであった。
1967年(昭和42年)5月、斑尾山開発促進期成同盟会が発足し、10月には長野県企業局が「菅平方式」(住民が無償で提供した土地を県企業局が造成、分譲しその利益を土地提供者に還元する方式)による観光開発を行なう」ことを表明、8月いよいよの斑尾山麓開発事業起工式が行われた。
1971年(昭和46年)ペンション村の計画検討が始まり、翌年、妙高村より土地提供があり、5月斑尾高原開発の起工式が現在の斑尾高原ホテルの場所にて行われ、1972年(昭和47年)12月1日、吹雪の中で記念すきホテル1棟、ペンション7軒、スキー場がオープンした。
1975年(昭和50年)には、斑尾高原トレツキングトレイルの始まりとも言える沼池(1981年11月希望湖と改名)自然遊歩道が開設、10月1日に斑尾高原観光協会設立総会が行われ、全国への広告宣伝、営業活動が本格的に始まった。
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1982年(昭和57年)には、その後恒例となる第1回ジャズフェスティバルが開催され斑尾高原に益々活気溢れた。
1988年(昭和63年)には、フリ−スタイルワールドカップ開催、翌年の1989年(平成元年)には観光協会会員数も増、施設数は168を数えるに至った。まさに斑尾高原の最盛期と言える時代であった。
しかし、その後のバブル崩壊に伴う日本経済の低迷に伴い「いわゆるリゾート」が低迷しているが、斑尾原もその例外ではない。
2003年(平成15年)度観光協会総会時の、観光協会加盟数97会員、105施設となっている。
2003年(平成15年)4月には誘客の拠点となるビジターセンター「まだらお高原 山の家」が完成し、体験プログラム等を展開して斑尾高原の活性化を図っているところである。
また、観光協会が進めているトレッキングトレイルが妙高村(現妙高市)の推薦により「遊歩百選」にも選ばれている。
沼の池の歴史
斑尾火山の流動性に富む溶岩流の末端のへこみに水をたたえたもので、西側は毛無山(大平特)と溶岩の末端でさえぎられている。池の東方に湧水がある。
池の東方に湧水がある他、川と言えるほどの流れ込む川はない。ほとんどが雪解け又は雨水による伏流水からの湧水である。透明度は4〜5mくらいあり、回りは大部分が国有林で、スギ、ミズナラ、カラマツなど様々な樹木に覆われ斑尾山を映し出す神秘的な湖である。
記録には、天正時代(安土桃山1573〜1591)に初めて壕を開き、文化2年(1806江戸時代中期)堤防にて水面を広げ、天保6年〈1836〉改築、安政2年(1856江戸時代終期)に大修築とあり、近年になっても幾たびかの修築があり現在に至っている。
湖北側の島の様な場所に弁財天が祀られていて、その石碑には、文化2年、天保10年の文字が刻まれている。
亨保年間(1716〜1735江戸時代 将軍吉宗の時代)は、飯山にて水田耕作が盛んであり、皿川下流では沼池からの水量では足りず、また、飯山全体でも水不足であり用水問題は深刻であった。
飯山の中でも沼池からの皿川の水は、大川、山口、藤ノ木等の村々と愛宕、伊勢町、有尾、市ノロ、小佐原の五ケ所との間で争論が絶えなかったとあり、飯山町、奈良沢、愛宕町、小佐原等にお
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いて用水不足のため溜め池を築きたいが用地が無く、趨後樽本村地籍の内前坂に溜池を築こうと、同村と交渉、年十両にて承認の記録がある。
いずれにしても、飯山は水不足の問題を抱えていた。その為に山間の湧水、自然の小さな沼から流れる水を利用し稲作をしたものと思われ、分道、堂平、牛ケ首等は山間の傾斜地を広げて耕作を行ったと思われる。
1981年(昭和56年)には、観光協会として沼池から希望湖(のぞみこ)と改名し、中部土地改良区の旭用水委員会より借り受け、ボートやフイツシング、周遊トレッキング等で観光に使用している。
標高約900m、周囲約3km、水深最大7m、雪解けから5月初め頃までは周辺に多くの水芭蕉が見られる。池の南側こ飯山市の天然記念物にも指定され、北信地区では数箇所しか見られないと思われている「ヤエガワカンバ」の木がある。胸高幹囲2.1m、樹高は16mある。カバノキ科で樹皮が重なってはがれる為に、八重皮樺の名があり、「別名・コオノオレ」ともいい環境省のレッドデータブックにも指定されている。またこの地域の特異性としては、シラカンバ林の中にダケカンバが混生していることとウチダシミヤマシキミが多いいことがある。
沼の原湿原の歴史
斑尾山の北約3km、標高870m、関川の支流土路川の源流部に位置する。
湿原は小丘陵によって東湿原と西湿原に分かれていて、東湿原が約4,5ヘクタール、西湿原が約14.5ヘクタールである。
二つの湿原は北方で一緒になり形のくずれた馬蹄形をしている。東湿原の東緑と西湿原のほぼ中央に川が流れている。
東湿原が最も湿潤で西に向かうにつれ乾燥化が進んでいる。
南に斑尾山、西に寄生火山の袴岳、東には小丘陵をへだて沼池があり、北へは土路川が下りそれに沿って、上樽、中樽、下樽の集落が点在している。
年間降水量は、約2500ミリ、最深積雪量は3mを超える。日本海に近く裏日本型の気侯で降雪量も多く、春遅くまで雪が残っている。湿原と川の水源は雨水と湧水によるもので、冬の豪雪が湧水をつくっていると思われる。
西湿原中央を流れる川の源流は、斑尾山北斜面の伏流水であり、年間を通し水量が変わらない湧水の場所が一ケ所ある。
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かつて、湿原地域には奥沼部落があり、萩原宿と呼ばれ享保年間(1716〜1735江戸時代中期)は最も栄え、75戸をかぞえた記録がある。信濃の国と越後の国との物資、文化の交流に大切な宿場として賑わいを見せたと思われる.
記録、文献を見ると、これより以前にもこの場所は、東山道の支路として幾多の繁栄と衰退を繰り返したものと思われる。
大正15年(1926)には3戸が残っていたが、中央電気会社(現東北電力)が貯水池としての利用が計画され、土地買収が行われ縦村している。(計画は戦争により中断し現在に至り平成16年に妙高村が東北電力より買収している)第二次大戦中に湿原の一部で水稲、大豆などが作られたことがあり、湿原の中に畦や水路の名残が見られる。
このように、古くから人的行為が加えられて来た為に、ブナ帯に属するが、大きなブナ林はみられず、湿原周辺にはミズナラの二次林が多く、東北側には広い範囲でカラマツが植林され、直径40cmを超えるものも見られる。
ミズナラについては、その大きさから山仕事にかなりの労働比重をかけ、日々の生計を営んで居たのではないかと思われる。
数百年の湿原化によって、多くの植物が育ち、植生上からみても貴重な地域になっている。湿原内には、一部にイボミズゴケを伴うヨシ群落で、典型的な火山山麓のヨシ湿原である。湿原南の万坂峠に近い部分は、湿性のノリウツギ、ハンノキ、メギ、キンキマメザクラなどの低木林が分布し、乾燥が進んでいる地域は、レンゲツツジが林床となっているシラカバ林である。
中央を流れる小川や周辺の流水部には、数十万株の水芭蕉をはじめリュウキンカの群落が分布し、滞留水域にはミツガシワが広がる。これらの群落の間に、オオイヌノハナヒゲ、ミカズキグサ、ミヤマシラスゲ、アイバソウ、カキツバタなどの群落が入り混じり、その中に点々としてトキソウ、オオニガナなどが散生していて、湿原内だけでも八十数種の植物が報告されている。ここ十数年のうちに特に乾換化が進み、ハイイヌツゲ、ズミ、ノリウツギなどの樹木の増殖、ヨシ、ススキなども乾燥化に拍車をかけ本来の植生が変わりつつあり、又乾燥化による水路の変化も影響していると考えられる。
この湿原は、耕地跡に二次的に出来た湿原ではあるが、放置された期間が長く、自然度が高い。湿性植物が多種類で、群落規模が大きいことが、この湿原の特徴とされている。
上越地方では珍しいカラコギカエデやメギもこの湿原に自生している。
野ウサギなどの動物、トンボなどの昆虫類、野鳥なども豊富である。
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植生に悪影響の出ない程度の保全策も必要であるし、自然観察園としての構想を進める時期でもある。
★ 関田山脈の稜線沿いには大小様々な湖沼等がある。南から七曲がりの池、大池、沼湿原、沼の池(希望湖)、二の越池、新池、濁り池、そぶの池、通草窪、熊の巣池、桂池、中古池、北古湿原、あま池、丸山池、古池湿原、茶屋池、野々海池等々があり、現在では改修築堤され、灌漑用水池になっているものもある。
斑 尾 山
斑尾山は、長野県と新潟県の県境に位置する標高1000m前後の山脈の南西端に位置する標高1381,8mの山であり、日本海まで約40kmの距離である。斑尾山から北東に延びた先、天水山(1088m)付近までの長さ約80kmの範囲を関田山脈という。関田山脈は約78万年前に海底からの隆起によって地上に現れた山脈であるが、斑尾山だけは約100〜170年万年前の火山であり、30〜40万年前に活動を終えたとされている。浸食前の斑尾山は、約1900m前後の山とされ、火山であることから関田山脈に含めない説もある。
西方には、妙高山・黒姫山・飯綱山・戸隠山の単独峰があり斑尾山を含め、信州では北信五岳と呼び、越後では信越五岳と呼んでいる。
斑尾山は、伝説等を含め歴史的に見ると和銅5年(713年、飛鳥時代終期)にさかのぼり、泰澄法師(たいちょうほうし682年生まれ)・行基(ぎょうき668年生まれ)・役小角(えんのおづぬ634年生まれ 後の役行者)・空海(くうかい774年生まれ 後の弘法大師)らが関わり言伝えとして残っている。
泰澄法師あるいは行基が山頂に薬師如来を安置したことから「薬師岳」。空海が旅の途中、曼陀羅の経文を山の峰に埋め立ち去ったことから「曼陀羅峰(まんだらほう=まだらほう=まだらお)」春、雪がまだらに残ることから等様々な説がある。
713年以降は、薬師の名で呼ばれ、800年頃からは曼陀羅峰と人々の信仰によって呼び方があったとも考えることも出来る。山頂から西に300m程の峰からは山岳信仰の霊場である4山を正面に見ることから大明神(神を尊んだ敬称)岳と名付けられていると考えられる。
江戸時代の古文書には信州では斑山(まだらやま)越後では斑尾山(まだらおやま)と記載されている。斑尾山の西方と南方の地域に山に関わる伝説が多く、信仰の山としての風習もあるようだ。
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飯山市に少ないのは、基もとの集落からは斑尾山が見えないことがあり、正面に見える高社山を、信仰を含め親しみをもっていたようである。
斑尾山の南から東山麓にかけて、信濃から越後に抜ける東山道の脇道、北陸道があったと考えられ、平安時代から鎌倉時代には街道の重要性から多くの集落が形成され、多くの寺院が建てられた記録があり、戦国時代には戦略的に重要な街道でもあった。
1964年に斑尾山にスキーリゾートの開発が計画され、1972年ホテル1棟・ペンション7軒とスキー場がオープンし、斑尾高原として現在に至っている。
火山としての斑尾山
斑尾山は火山である。
火山の最高点は、1,381.8mであり、火山としては、それほど高いものではない。
浸食が非常に進んでいて、眺める方向によっては、とても火山に見えない地形になっている。
西側から見ると、火山斜面が残って無く、火山岩で構成される稜線は細くシャープであり、周辺の山地や丸みを帯びた尾根とは異なる。
しかし、東側では火山斜面が僅かに谷間に残り、北東側には比較的火山斜面が残る。
また、これに続く火砕流堆積面は、広くはないがあり、そこに斑尾高原としての地域が広がっている。
東側に残る火山斜面をもとに、接峰面図から等高線を西側に延長し、周辺の給料や山地の接峰面図の等高線と連続する方法で、斑尾火山の浸食される前の地形を復元してみると、浸食前は薬1,900mの高さがあったと考えられる。
しかし斑尾火山の南西部の釜石山付近は、等高線が外に突出し同心円にならないことから、この地域は斑尾火山とは別の火山があった可能性が考えられる。そして、寄生火山ではなく、斑尾火山より古い別の火山があった可能性も周辺の地層研究から考えられる。
調査の方法から斑尾火山は、40〜30万年前に周辺に火砕流を流下して活動を終えたと考えられる。
高野辰之と斑尾山
高野辰之【たかのたつゆき】(M9/1876〜S22/1947):豊田村出身の国文学者。
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下水内郡永江村(後に豊田村となり、現在は中野市)に生まれ弟2人妹3人の長男。
小学校(飯山)までは往復16kmの道を歩いて通い、飯山の寺に下宿をして学業に励みました。
読書好きな少年であり、悪戯好きな少年でもあったようだ。
1910年東京音楽学校(現,東京芸術大学音楽学部)教授となる。広く文献資料を収集・考証し,邦楽,歌謡,演劇の芸態とその史的研究の先駆者として未踏の分野を開拓した。1925年論文「日本歌謡史」により文学博士の学位を受け(翌年刊行),1926年から東京大学で日本演劇史を講じた。のち大正大学教授に就任。晩年は、野沢温泉村の別荘で過ごした。
小学唱歌の作詞者として著名。その代表作として、彼の幼少を過ごした信州の自然を織り込んで作詩した「故郷」「おぼろ月夜」「紅葉」「春がきた」「春の小川」 などがある。いずれも今でも皆に親しまれている郷愁を誘う歌である。先に挙げた四曲は、平成元年NHKがおこなった「日本のうた ふるさとのうた」100選に選ばれた曲である。
また、郷里の豊田村には、「故郷」の記念碑・高野辰之記念館が、野沢温泉村には、「朧月夜」歌碑が建てられていて「おぼろ月夜の館」という名前の記念館がある。
辰之少年が育ったところは斑尾山の麓に位置し、「故郷(ふるさと)」の中の歌詞・・・”うさぎ追いし、かの山”は、斑尾山のことである。
故郷(ふるさと)
高野辰之作詞、岡野貞一作曲
一、兎(うさぎ)追ひ(おい)しかの山、
小鮒(こぶな)釣りしかの川、
夢(ゆめ)は今もめぐりて、
忘れがたき故郷(ふるさと)。
ニ、如何(いか)にいます、父母、
恙(つつが)なしや、友がき、
雨に風 につけても、
思ひいづる故郷(ふるさと)。
三、こころざし をはたして、
いつの日にか歸(かえ)らん、
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山はあをき故郷(ふるさと)、
水は清き故郷(ふるさと)。
樽本地区の歴史的経過
古代の官道「東山道」の支路として考えられる中で、現在の豊草地区の歴史は平安時代にさかのぼると思われる。
この地区の歴史的資料は少ない。どの位の資料があったかは不明であるが、明治35年の春の大火により、唯一歴史資料が集められていたとされる中樽本村の公民館が総戸数25軒中20軒と共に消失し、更に解明は困難である。
周辺地域の歴史的資料から考えるに、起源は今から1000年前、「東山道」の支路が整備された頃と思われる.
「平家物語」に木曽義仲と不和になった源頼朝が義仲を討つために信濃に出陣すると、義仲は「依田」の城を出て信濃と越後の境にある熊坂山に、寿永2年〈1183年)陣を構えたとある。
また、寛冶3年(1089年〉に作られたとしている、「往昔越後之図」別名「寛治之図」と呼ばれるものがあるが、この国によれば、妙光山(妙高山)、関川、大田切、小田切、松崎、大鹿の地名が記されている。これらを見ても、これらの時代に先人が入植していたものと考えられる。
上樽本の集落成立は、同地区の小出家の過去帳に小出家の祖は、源平時代の武将で一族を率いて豊臣、徳川に仕え信濃守に従った。
豊巨滅亡後は、戦乱の余波を受けて一族を率いて樽本に逃げ込み、焼畑農業を行い、開拓をして住みついたと伝えられている。小出家の祖である秀改は、秀吉と同じ尾張中村の生まれで、京都園部藩城主となり、その後徳川家康の勢力が強大となり、豊臣との対立抗争の時代になる。小出家はどうした事情か大阪真の陣(慶長20年、1615年)には徳川勢についている。秀政より三代日の吉親は信濃守に国替えをしている。小出家一族もこの吉親に同行し、樽木に居残ったと言われる。
小出家の過去帳最古の法名は、寛永7年(1630年)で、小出吉親の時代と大体一致している。
上樽本は、周りを山に囲まれ人目につかず、守るには容易な地であり、また土地が肥沃で、農作物が豊かで十分自活できる環境に着目したらしい。
開拓当時、土路川の西側に小出家が、東側と下樽本に木賀家が番人として見張り、敵の侵入に備えたと言う。
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木賀家の祖も、源平時代の武将である。源頼朝の家臣で木賀善司吉成という文武に優れた武士で、病にかかり死期を迎えようとしている時、老僧に「西の方の温泉がある、それに浸かればきっと良くなる」と音われ、老僧と共に箱根の地まで来、老僧が「涌甘露消滅除衆病悩」と唱えると温泉が湧き出し、善司はありがたく温泉に浸かると病が治った。以来、この温泉を木賀と呼びこの地を木賀の里と呼ぶようになった。
小出家、木賀家双方の祖が源平時代の武将であり、源頼朝の家臣とするならば、木曽義仲の討伐のためにこの地に来たものか、それとも義仲と共にこの地にきて、何らかの事情にて山深く移り住んだものとも考えられる。
この樽本地区が忍びの者の里の可能性もある。時代により豊臣、徳川双方に仕え、もう一つの地域名「豊葦村」の葦は、草に例えられた忍びの者に関係があるのでは。また、武士の系統である者が、重要な陸路の近くで田畑を耕して信越国境の道筋警備をしていたことも考えられる。
両家の祖の言い伝えが1190年代(源平時代)に始まり、次に塵史に出るのは1590年代(安土秋山時代)からである。この間の、鎌倉時代、(1199〜1335年)室町時代(1336〜1570年)は戦国時代である。’越後の国上杉と信濃までを治める武田の戦いの他、越後内での勢力争い等の中で慶長12年(1608年)に福島城(上越市港町)に移るまでの約250年間は動乱の時代であった。
春日山に近い樽本城は、信越国境に近いことから重要な役割を果していたようだ。城主は上杉謙信の臣下で「樽本 弾正」と伝えられ、大字樽本甲字城に所在した中世の山城であった。現在は城跡中央に薬師堂がまつられている。春日城を守るために頸南地域には、確認されているだけでも35の城館跡を数える。
しかし、樽本に住む、本来武士の系統の人々がどのように戦国の世に関わったかは不明である。
豊葦村=伝説、口碑によると約1000年前とされ、正長年間(1428〜1429年)に信濃の奈良沢村と樽本村の国境を両国の立会いで定めたとされている。
樽本村=古くから山を越え信濃との交通路があり交流も盛んであった。
江戸期から明治22年(1889年)までの村の名である。江戸初期は上樽本村と別れていたが、のちに樽本村一村となる.天和4年(1684年)には、樽本と記されている。
この頃より国境の争いが活発になり、元禄15年(1703年)信濃の国水内郡、北条村、顔戸材、富倉村、奈良沢村と越後の国頚城都、小沢村、平丸村、長沢村、樽本村とが山婆獄、経塚平、斑尾山にかけて境界を争った。
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原因は、国境を越え、薪や材木をみだりに切り出した事にあった。
元禄15年11月22日幕府の判決は越後の言い分となった。現在の県境とほぼ同じものである。
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■気象に関する知識
気象の特徴
「温帯落葉樹林帯」に当たり、偏西風が一年を通じて雨をもたらす緑豊かな気候風土と言える。
世界の地域の中では、西岸海洋性気候の北西ヨーロッパ(デンマーク等)と同様な気候帯である。
そして、気象の特性としては
(1
) 冬期の多雪(3mを越える積雪)と明確な四季
(2
) 冬期の最低気温は、マイナス15℃に達する
(3
) 8月の平均気温は、20℃前後
植生の特徴
「ブナ林帯」で、緑豊かな植生とその植生が育む豊かな動生物の生態系である。
日本を始め世界の多くの「ブナ林帯」で優れた文化が起こり育まれている。
斑尾高原に雪は何故多く降るのか
(1
) シベリア寒気団
(2
) 日本海暖流(対馬海流)
(3
) 日本列島を縦断する山脈
シベリア寒気団は、日本海に達すると対馬暖流(海水温が15℃にもなる)から大量の水蒸気を貰い、その湿った空気が偏西風に運ばれ、日本列島を縦断する山脈に当たることで急上昇して、上空の寒気に冷やされて雪となる。
この際中国大陸等から偏西風に乗って大量に飛んでくる砂の粒子が雪の結晶を作るのに一役買っていることも覚えておこう。
また、斑尾高原付近は、この辺を境に日本列島が大きく北側に湾曲している影響もあり、偏西風を呼び込む形になっていることも雪の量を多くしているひとつである
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